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第3回
「絹の国」の今と昔
「僕は少年のころ、下着に絹のパンツをはいていたんですよ」。織物を趣味にしている数人の女性の集まりで話したら、「わぁー、すごい。貴族のような生活だったのですか」と、なかば冗談、なかば本気らしく聞き返された。もちろん、私の家は王侯でも貴族でもない。中流の農家だった。
私の母は蚕を種から育て、それが繭になるまでの養蚕にしたがい、繭から糸を挽(ひ)いた。「座繰り」という。さらに生糸を機(はた)で織り、できあがった布を自分で縫った。絹の下着は、一貫して母親の手づくりであることが私の誇りだった。当時、養蚕農家の女が座繰りをするのは当たり前の風景だった。「上州の空っ風と、かかあ天下」という働き者の女性のイメージを生む背景が見えてこよう。
群馬は、隣の長野県とともに国内でもっとも養蚕が盛んなところだった。次に山梨、埼玉県。この4県で全繭生産額の半分以上を占めている。生糸は、かつて、わが国輸出産業の主要品目であり、輸出相手国はアメリカが1位だった。アメリカでは生糸の80%が女性のストッキングに使われたと知って、おれの方は下着だったのだ、と奇妙な日米比較をしたものだ。
11月6日、「21世紀のシルクカントリー群馬」の講演とシンポジウムに参加した。シルクカントリー、つまり絹の国である。群馬県富岡市にある旧官営富岡製糸場が会場だった。
富岡製糸場は1872(明治5)年、明治新政府が殖産興業政策の一環として設立した官営の模範工場だ。フランス人技師ポール・ブリューナの指導で在来の座繰り製糸にかわる機械製糸技術を導入、日本を世界最大の生糸輸出国に押し上げる一役を担ったのである。
1987年に操業はやめたが、創立から133年、東西2棟の繭倉庫や繰糸所、ブリューナ館、フランス人技師の宿舎などの建物群は当時のまま残されている。工場建物の特徴は、一見すると木造のような構造の中にレンガが詰まっていること。つまり、木の骨にレンガを詰めた「木骨レンガ造り」だ。東大生産技術研究所の藤森照信教授によると、これはヨーロッパではハーフティンバー(半木造)というが、この様式は、世界でもほとんど残っていないという。幕末にフランスから来日し横須賀製鉄所(のちの海軍工廠)を建設した技師バスチャンが設計した。
旧官営富岡製糸場は今年7月に国史跡に指定された。これを機に、群馬県は同製糸場を核に、県内の養蚕・製糸・織物にかかわる近代産業遺産を結びつけて世界遺産に登録する運動を広げている。旧碓氷社本社本館(安中市)、島村養蚕農家群(伊勢崎市)、旧新町屑糸紡績所(新町)、桐生本町建造物群(桐生市)、荒船風穴(下仁田町)、碓氷峠鉄道遺構(松井田町=国重要文化財)などだ。
「桑田滄海」という成句がある。桑畑が、いつの間にか海となっている。世の中の変転が激しいことのたとえだ。養蚕業が活気を呈していたころ、上州には桑畑が渺渺(びょうびょう)と広がっていた。しかし、今は桑の木をめったに見ることはできない。
桑の成育には農薬を使わない。養蚕は自然に寄り添った、はやりの言葉でいえば、たいへんエコロジカルな産業なのである。絹の文化と歴史を県民の共有財産として残し、地域の再生につなげよう。シンポジウム「21世紀のシルクカントリー群馬」の各パネリストの発言をかいつまんでいうと、そういうことになる。
旧官営富岡製糸場の正面「東繭倉庫」
「21世紀のシルクカントリー群馬」シンポジウム。右から森まゆみ(作家)、茂木雅雄(大日本蚕糸会理事)、藤森照信(東大教授)、佐藤好祐(宮内庁御養蚕所主任)の皆さんら
富岡市役所前に立つ広告塔
(2005.11.27記)
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