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 フルーツ・エピソード No.11
      

文学の中の果物

 ・ 樹木の不思議 (薄田泣菫)
 ・ 桃の實 (若山牧水)
 ・ 一房の葡萄 (有島武郎)
 ・ 山の別荘の少年 (豊島与志雄)
 ・ 蜜柑 (芥川龍之介)
 ・ 野菊の墓 (伊藤左千夫)
 ・ 湯ヶ原より (国木田独歩)
 ・ 善蔵に思う (太宰治)
 ・ 夜明け前 (島崎藤村)
 ・ 奥の細道 (松尾芭蕉)


 
□ 樹木の不思議  (薄田泣菫)

 今日久しぶりに岡山にいる友人G氏が訪ねて来た。そして手土産だといって梨を一籠くれた。梨は一つずつ丁寧に二重の薄紙に包まれていたが、その紙をめくってみるとなかからは黄熟した肌の滑っこい、みずみずしい大粒の実が現われた。

 梨好きな私は、早速その一つを皮をむかせて食べてみた。きめの細かい肉は歯ざわりがさくさくとして、口の中に溶け込むように軽かった。

 「うまいね、この梨。ことしの夏は京都、奈良、鳥取と方々の果樹園のものを食べてみたが、こんなうまいのは始めてだよ。」

 「実際うまいだろう。皆がそう言っている……。」と客はさも満足そうにいって、口もとに軽い微笑の影を漂わせた。

 −薄田泣菫著「艸木虫魚(そうもくちゅうぎょ)」の中から「樹木の不思議」より


− ☆ −
薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん:1877年生まれ-1945年死去)は、岡山県浅口郡(現:倉敷市)出身で、詩人、ジャーナリスト、エッセイストです。



 
□ 桃の實  (若山牧水)

 『二つ三つなら錢はいらねエ、たゞ上げますべえよ。』
 と齒の無い、皺深い顏で、ニコ/\と笑ひながら片手で桃を掴んで呉れた。

 * *

 私は惶てゝ一つの桃に齒をあてた。大口に噛み缺かれた桃の頭は、實に滴る樣な鮮かな紅ゐの色をしてゐた。全く打ち續けてその汁を啜り取る樣に私は口をつけた。

 一つ二つと夢中に噛んで、ひよつと上を見るといつか疎らになつた林の眞上いつぱいに例の妙義の岩山が眞黒い樣に聳え立つてゐるのが見えた。

 −若山牧水著「桃の實(み)」より


− ☆ −
 若山牧水(わかやま・ぼくすい):明治18年(1885年)8月24日宮崎県東臼杵郡で生まれる。宮崎県立延岡中学(現延岡高等学校)で短歌と俳句を始め、18歳のとき、号を牧水とする。昭和3年(1928年)9月17日死去。



 
□ 一房の葡萄  (有島武郎)

 先生は真白なリンネルの着物につつまれた体を窓からのび出させて、葡萄(ぶどう)の一房をもぎ取って、真白い左の手の上に粉のふいた紫色の房を乗せて、細長い銀色の鋏で真中からぷつりと二つに切って、ジムと僕とに下さいました。真白い手の平に紫色の葡萄の粒が重って乗っていたその美しさを僕は今でもはっきりと思い出すことが出来ます。

 −有島武郎著「一房の葡萄」より


− ☆ −
 有島武郎(ありしま たけお:1878-1923年)は、農学者を志して札幌農学校に進学しました。志賀直哉や武者小路実篤らとともに文芸雑誌「白樺」の同人です。「生まれ出づる悩み」、「或る女」などの作品があります。



 
□ 山の別荘の少年  (豊島与志雄)

 家のまえに大きな柿の木がありました。いっぱいなってるその柿が、秋になると、赤く色づきました。

 私と正夫はそれをたくさんたべました。あそびにくる村の子供たちにもわけてやりました。朝露にひえたつめたいのをかじるのが、いちばんおいしくありました。

 そして柿は、まもなくなくなってしまい、ただ一つだけ、たかい梢にのこりました。すっと空たかくつきでた枝の先に、たった一つなっているので、登ることもできず、竿もとどきませんでしたが、それよりも、そのいちばんたかい一つだけは、ただなんとなく残しておいてやりたかったのです。

 その一つの柿は、まるで柿の木の旗みたいでした。まんまるな大きなもので、朝日や夕日に赤くかがやきました。

 −「山の別荘の少年」(豊島与志雄)より


− ☆ −
豊島与志雄(とよしま よしお、1890年11月27日−1955年6月18日)は、福岡県朝倉郡福田村に生まれました。芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らと第三次『新思潮』の刊行に参加しました。



 
□ 蜜柑  (芥川龍之介)

 するとその瞬間である。窓から半身を乗り出していた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢(いきおい)よく左右に振ったと思うと、忽(たちま)ち心を躍(おど)らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑が凡(およ)そ五つ六つ、汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降って来た。私は思わず息を呑んだ。そうして刹那(せつな)に一切を了解した。

 * *

 暮色を帯びた町はずれの踏切りと、小鳥のように声を挙げた三人の子供たちと、そうしてその上に乱落(らんらく)する鮮な蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬(またた)く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はっきりと、この光景が焼きつけられた。そうしてそこから、或得体の知れない朗(ほがらか)な心もちが湧き上って来るのを意識した。

 −「蜜柑(芥川龍之介)」より


 − ☆ −
芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年3月1日 - 1927年7月24日)。「鼻」で夏目漱石に認められ文壇に入る。「芋粥」、「藪の中」、「蜘蛛の糸」、「杜子春」などの作品がある。のちに、芥川の業績を記念して芥川賞が設けられた。



 
□ 野菊の墓  (伊藤左千夫)

 僕が今忘れることが出来ないというのは、その民子と僕との関係である。

 *

 僕は小学校を卒業したばかりで十五歳、月を数えると十三歳何ヶ月という頃、民子は十七だけれどそれも生れが晩(おそ)いから、十五と少しにしかならない。

 *

 山の弁当と云えば、土地の者は一般に楽しみの一つとしてある。何か生理上の理由でもあるか知らんが、とにかく、山の仕事をしてやがてたべる弁当が不思議とうまいことは誰も云う所だ。今吾々二人は新らしき清水を扱み来り母の心を籠(こ)めた弁当を分けつつたべるのである。興味の尋常でないは言うも愚(おろか)な次第だ。僕は『あけび』を好み民子は野葡萄(えびづる)をたべつつしばらく話をする。

 −「野菊の墓」より


 − ☆ −
伊藤左千夫(いとう さちお、1864年9月18日-1913年7月30日)は、上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家出身。1905年に『野菊の墓』を『ホトトギス』に発表し、夏目漱石に評価される。



 
□ 湯ヶ原より (国木田独歩)

 僕はお絹が梨をむいて、僕が獨(ひとり)で入いつてる浴室に、そつと持て來て呉れたことを思ひ、二人で溪流に沿ふて散歩したことを思ひ、其優しい言葉を思ひ、其無邪氣な態度を思ひ、其笑顏を思ひ、思はず机を打つて、『明日の朝に行く!』と叫けんだ。(国木田独歩著「湯ヶ原より」)

−−−
国木田独歩(くにきだ どっぽ、明治4(1871)年8月30日- 明治41(1908)年6月23日)は、千葉県銚子の生れです。代表作に「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」、「忘れえぬ人々」などがあります。



 
□ 善蔵に思う (太宰治)

 いつも御元気にてお暮しの事と思います。いよいよ秋に入りまして郷里は、さいわいに黄金色の稲田と真紅な苹果(りんご)に四年連続の豊作を迎えようとしています。此の際、本県出身の芸術方面に関係ある皆様にお集り願って、一夜ゆっくり東京のこと、郷里の津軽、南部のことなどお話ねがいたいと存じますので御多忙中ご迷惑でしょうが是非御出席、云々(うんぬん)という優しい招待の言葉が、その往復葉書に印刷されて在り、日時と場所とが指定されていた。私は、出席、と返事を出した。かねがね故郷を、あんなに恐れていながら、なぜ、出席と返事したのか。



 黄金色の稲田と真紅の苹果(りんご)に四年連続の豊作を迎えようとしています、と言われて、私もやはり津軽の子である。ふらふら、出席、と書いてしまった。眼のまえに浮ぶのである。ふるさとの山河が浮ぶのである。私は、もう十年も故郷を見ない。(太宰治著「善蔵に思う」より)

−−−
太宰治(だざい おさむ、1909年6月19日〜1948年6月13日)は、青森県北津軽郡金木村(現在の青森県五所川原市、旧金木町)で県下有数の大地主の6男として生まれました。代表作に「富嶽百景」、「斜陽」、「人間失格」などがあります。



 
□ 夜明け前 (島崎藤村)

 その晩、家のもの一同は炉ばたに集まった。隠居はじめ、吉左衛門から、佐吉まで一緒になった。隣家の伏見家からは少年の鶴松(つるまつ)も招かれて来て、半蔵の隣にすわった。おふきが炉で焼く御幣餅の香気はあたりに満ちあふれた。

「鶴さん、これが吾家(うち)の嫁ですよ。」

 とおまんは隣家の子息(むすこ)にお民を引き合わせて、串差(くしざ)しにした御幣餅をその膳(ぜん)に載せてすすめた。こんがりと狐色(きつねいろ)に焼けた胡桃醤油(くるみだまり)のうまそうなやつは、新夫婦の膳にも上った。吉左衛門夫婦はこの質素な、しかし心のこもった山家料理で、半蔵やお民の前途を祝福した。(「夜明け前」から)


−☆−
島崎藤村(しまざき とうそん:1872年3月25日〜1943年8月22日)は、木曾の馬籠(現在の岐阜県中津川市)で生まれました。主な著書は、「破戒」、「家」、「夜明け前」などです。



 
□ 奥の細道 (松尾芭蕉)

 此宿の傍に、大なる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡(とち)ひろふ太山(みやま)もかくやと閑(しずか)に覚られてものに書付侍る。其詞、
 栗といふ文字は西の木と書て西方浄土(さいほうじょうど)に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。

 世の人の 見付ぬ花や 軒の栗

 − 奥の細道:須賀川(松尾芭蕉)より

<訳>
 庵の傍らに大きな栗の木陰を頼んで、世を忍ぶ僧がいた。橡(とち)をひろう山での暮らしもかくやと偲ばれて、次のように書き付けた。
 栗という字は西の木と書いて、西方浄土を意味すると、かの行基菩薩が生涯、杖にも柱にもこの木をお使いになられたそうである。

 この庵には世間の人が気にも止めない地味な栗の花が咲いている


−☆−
松尾芭蕉(まつお ばしょう:1644年(寛永21年)-1694年(元禄7年))は、江戸時代前期の俳諧師。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と称せられている。

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 与謝蕪村が上記の情景を描いた「奥の細道画巻-可伸庵」は下記のサイトで鑑賞できます。(注:可伸は蕉風門下の僧侶)
http://www.bashouan.com/psBashouNe03.htm


−☆−
与謝蕪村(よさ ぶそん、よさの ぶそん:1716年(享保元年)- 1784年(天明3年))は、江戸時代中期の俳人、画家。




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